文章中、司…司会者●…参加者



 丸山地区は長田区の北部に拡がる丘陵地で、地区への交通機関としては高速長田駅からのバス、そして神戸電鉄、長田駅、丸山駅、鵯越駅などがあります。
 長田区は南北に細長い区ですが、その北部に位置する地域が丸山地区です。道路としては南北を長田箕谷線が通り、地区内をバスが巡回する地域ですが、地区内はまさに山あり谷ありで初めて行った人だけではなく、何回かこの地域に来ている人でも時には道に迷ってしまうこともあります。このシリーズの6回目ではそんな丸山地区を紹介します。



司)戦前の丸山はどんなまちでしたか。
●現在神戸市総合療育センターが建っている辺りに遊園地がありました。戦前の丸山は、神戸でも数少ないレジャーゾーンでした。そこには鳥や小鹿などがいるミニ動物園や、当時はめずらしかった自動車の運転練習場、外国人の経営するレストランなどがありました。また、バス道沿いには立派な家が並び、桜がたくさん植えられていて、バスは桜のトンネルを走っているような感じでした。大きな池があって、ふなやこいを釣って、また公園では野球をし、卓球場などもあり、大人も子どもも楽しめる絶好の遊び場でしたよ。春には在日韓国人の方々が家族で太鼓を叩きながら踊り、どぶろくを飲んだりしていましたが、そんなときには、公園で野球をしていた人たちも、しばし野球をやめて踊りを楽しんだりしたもんです。
●現在の丸山コミュニティセンターのあたりは、おとなの文化・娯楽ゾーンのような感じでした。青山という大料亭があり、壁には桧肌の板がうたれ、夜には建物が照明でライトアップされてとても美しかったことを覚えています。陸軍軍人やとりまきの業者がきて宴がもたれ、また近くには大日温泉、映画、ゲーム場などもありました。
●丸山には世界をまたにかけた海運業の船乗りの方々が家を建て、住み始め、別荘や保養所などが建てられました。昔は、松竹座の漫才師 砂川捨丸さんや淡谷のり子さんと同期だったオペラ歌手の市来崎(旧姓:徳末)のり子さんといった芸能人も住んでいました。家からは歌そしてピアノの音が流れ、終戦直後、進駐軍がよくジープで歌を聴きにきていました。

司)開発が進んだのは戦後で当時は家もそんなになかったと思いますが。
●昔丸山にある家屋は2〜300戸だったと思います。
 自然に囲まれて、松茸等きのこ類の生産地でもありました。地区内を流れる桧川や大日川は水がきれいでよく海水浴をしました。
 丸山街道が丸山から妙法寺に突き抜け、今の長田箕谷線沿いは住宅ゾーン、その間に森林ゾーンがあり、土地を管理する神戸土地(株)が山を巡回していました。
●丸山公園は戦時中は捕虜収容所となりました。収容所にはオ−ストラリアの兵隊がいて、川崎重工に強制労働にいっていたそうです。


司)戦後はどうでしょうか。
●戦後、土地が細分化されて売られていき、家が乱立していきましたね。
●住宅が増えていく中でも近所同士のつきあいはよくて、奥さん同士のパーティなども行なわれましたよ。

司)地区の中には獅子ケ池もありますね。
●長田区と須磨区との区界にある獅子ヶ池は昔、大池と呼ばれていました。丸山青年の集いという丸山自治協議会の中の青年会のようなものがあり、獅子ヶ池で青少年のキャンプを指導しておりました。
 キャンプ村に大学生もボランティアに来て、面倒を見てくれていたんです。
 また、鹿松町には廃止された市電を活用して、そこを拠点に、もちつき大会などコミュニティ活動を行なっていました。
 獅子ヶ池の近くには石山があり、明治の頃から昭和の中頃まで、雲雀ヶ丘3丁目には炭鉱もあったそうですよ。

                     




司)丸山でのコミュニティの話がでましたが、丸山の住民活動は古くから活発におこなわれていますね。
●丸山地区では戦前、丸山住民の会、青年会、愛国婦人会の組織があり、戦後間もない時期に防犯組織「丸山地区防犯協力会」が発足しました。その後、丸山文化振興会という名称で、昭和40年代が一番活動が盛んだったと思います。市営住宅の建替えの問題、上下水道、バスや道路の問題などに取り組みました。特に高度成長期に、家が次々と建ち、市街化が急速に進んだので幹線道路が不足し、神戸市といろいろとやりあったといいます。また、丸山独自で公債を発行して、丸山コミュニティセンターが整備されるなど、原口市長の時代には、「たたかう丸山」ということばもありましたが、住民運動は積極的に展開されてきたと思います。



司)丸山には鵯越や源平町などの源平の合戦を思わせる町名がついた町がありますよね。
●吉川英治氏が新平家物語を書くにあたって、この地域を訪ねたとも聞きますが、長田区は丸山から南に下りるに従い、平知章や忠度などの源平合戦にゆかりの碑があります。立地的にこの丸山の辺りが、有名な義経の鵯越えの逆落としの場所だったのではないかとも思います。

長田区の鵯越は源平合戦の行われた戦場だと言われています。そんな中からエピソードを一つ…

鵯越の奇襲と駒つなぎの松
元暦元年(西暦1184年)2月4日の朝、源義経は軍勢1万騎をひきつれて六条堀川の館から京のまちを西へと走り、丹波街道から亀岡を経て、篠山へ、さらに小野原では三草に平家の布陣があると知って、これを奇襲し平家軍を打ち破る。これが源平の三草合戦である。
―中略ー
義経は鵯越の切り立った絶壁を一気に駆け降り敵の不意をつこうと考えたのである。一本の松ノ木のかげに駒(馬)を休めた義経は、武蔵坊弁慶に命じ、このあたりの地理に詳しい案内者をさがしにいかせるが、この松が「義経駒つなぎの松」である。今ではすっかり枯れてしまっているが、鵯越墓地の一番奥、高尾地蔵の境内に残っておりここから南へ向かってのながめはめずらしく、よく晴れた日は家島群島から東の和歌山までが一望のもとに見渡すことができる。義経の軍勢は7日の早朝、鵯越から平盛俊らが守る長田の谷に向けて、一気に攻め込んで、大勝を博したのであった。
「長田の歴史」より



司)今の丸山のよいところはどんなところでしょうか。
●庶民的なまちで人と人のつきあいがよい所と思います。
●自治会の人数としては6,000世帯という大所帯ですが、丸山コミュニティセンターができたことがきっかけになり、自治協、老人会、婦人会や子ども会など各団体がうまく連携して行事などをやっています。婦人会のふれあい給食、ふれあい喫茶や、1月17日の希望の灯りなどもそういった地域の協力体制ができているからだと思います。
●これから丸山を良い街にしていくためには、住民だけの自治だけではなく、行政と一緒になって地域の課題に取り組んでいくことが大切です。



トークにご参加いただいた方
神崎謙三
村上浩一
山下文啓
山名静子
山名信益
(順不同・敬称略)









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