文章中、司…司会者●…参加者



 真陽地区は、新長田駅の南東、新湊川の西に広がる地域です。地区内には東西に、六間道商店街、西神戸センター街、南北に本町筋商店街、そしてそれら商店街を繋ぐように丸五市場があり、多くの商店が軒を連ねています。また、周辺には町工場や住宅などが張り付き、以前はその南端に大阪ガスの工場がありました。そして長田区で最も古い学校、真陽小学校があり、地域コミュニティの核となっています。

司)かつて六間道は西新開地と呼ばれ、大変な賑わいだったそうですね。
●六間道は今は閑散としてるんですが、戦後、焼け残ったということもあってか、かつて新開地に匹敵する賑わいのある商店街でした。 先日、兵庫の10日えびすにいきましたが、その人ごみを見て、六間道も昔はこうだったななんて思いました。 昔は新湊川の庄田橋から西の六間道を望むと、特に朝晩の通勤時は東の三菱、川崎の工場、マッチ工場に向う人の波で、道が見えないくらい、その光景は、ほんとにすごいというか素晴らしかったんです。 昔は娯楽が少なかったということもあるのでしょうか、この辺は映画館も何軒かありましたが、どの館も2重、3重の人で、立ち見ばかりでした。 また、商店街のあちこちで年配の人が、将棋や碁をしたり、昔は7日と22日だけが休みでしたが、子どもたちが道の真中でキャッチボールをしたりと、のんびりというかおだやかな雰囲気もありました。 終戦後、復興際という祭りがありましたが、屋台がでて、女の子は着物を着て、みんなでおどり、大正筋の入口から六間道と練り歩き、押し合いへし合いで、大変なにぎわいでした。
司)映画館がたくさんあったとうことはよく聞きますが、どの辺にあったんですか。
●二葉5丁目に娯楽館があり、戦後火事で焼けた後は平和劇場という名になりました。久保町6丁目に松竹館、二葉4丁目の現在の神戸信用金庫のところに国際劇場、庄田町4丁目に昭和館、久保町2丁目の協同病院があるところに 関西劇場、その南隣に関西小劇場、また庄田3丁目に三国館。三国館はなにわぶしで有名でした。三国館は後に、日本館、繁栄座と名前を変えて行きました。美空ひばりをはじめ、有名な俳優、歌手などが来ていましたね。
●六間道には映画館以外にも呉服屋も多かったですね。

司)本町筋はどうでしたか。
●本町筋とよばれるようになったのは戦後で、昔は、現在の入口の三井住友銀行のところに林田区(長田区の前身の区)の区役所があったので、林田筋と呼ばれ、またタンス屋がたくさんあったので、道具屋筋とも呼ばれていました。
司)丸五市場はどうですか。
●昔は路地裏にレンガ筋市場、えびす市場といった市場がたくさんあったのですが、丸五市場ができて、つぶれていきました。丸五という名前の由来は市場の北から第一部、第二部、第三部、第四部と市場が分かれてできたものがつながり丸五市場となったんです。
司)ほかに特色的なことはありますか。
●この地区をはじめ長田区には喫茶店が多いんですが、今でいうオーレのことをミーコということから、昔から喫茶店に行くことを「ミーコいこか」といっていましたね。
司)きっと喫茶店が、各店の応接、商談の場所として使われてきたんでしょうね。
●戦後の混乱期の中で、任侠沙汰の事件などもありましたけれどね。
司)大阪ガスが操業していた頃の思い出などはありますか。
●ガスタンクが、上下し、ときおり水蒸気があがり、そのあがった水蒸気を見て、ああガスができたんだなと思いました。そういうこともあって五位の池線を地元の人はタンク筋といってきたんだと思います。
司)戦時中はどうでしたか。
●自宅の地下や六間道の真中に防空壕を掘ってました。昭和20年3月17日の空襲では焼夷弾がいくつか落ちたりしました。
司)遊びとかはどうですか。
●公園とかなかったので、駒ケ林の浜でつりや泳ぎ、竹トンボを作ったり、メンコなど、今と違い、昔は外で、自分たちで工夫して遊んでいたのではないでしょうか。そういえば駒ケ林の浜には昔、難破船が沈んでいましたね。





司)真陽小学校は長田区でも最も古い学校ですよね。
●長田区の各学校は真陽小学校から分かれていきましたが、戦前、真陽小学校は多いとき、昭和4年では1学級あたり50人を超えており、67学級3,300人も生徒がいました。日本一学級数が多い学校だったんです。
●戦後に小学校に通った私の頃は7〜8クラスで1クラス45人以上はいたと思います。
●真陽小学校には、越後屋といっていた地元の店(個人)の寄付でプールができたり、昭和24年頃だったでしょうか、ローラースケート場ができるなどしました。地域が学校を、学校も地域を大事にしてきましたね。
●震災時にも広いエリアから避難者が寝泊りしましたが、お世話する人も多く、混乱もなく、まとまってやっていけたのはすごいことだなと思います。
●昭和59年に自治会や民生委員、婦人会、子ども会、消防団などなど各団体を統括して、真陽地区社会福祉協議会という組織をつくり、単に会長さん同士のつながりでなく、各会員、住民が連携し行動してきたことで、地域の横のつながりを強め、保ち続けることができたのではないかと思っています。その後神戸市でふれあいのまちづくり協議会の制度ができたときも、真陽地区では社会福祉協議会を母体にしたのです。




●真陽小学校は明治20年に神戸市が学校法で小学校をつくるという年代にできました。その当時、東尻池村、西尻池村という村があり、万葉集では両方の村をあわせて真野という地名で詠われています。神戸市が真野という地区の中で小学校をつくりたいということで、それが真野の南、南というのは、暦で陽といいますので、真陽小学校ができたわけです。
学校が出来たことと、当時、川崎重工、三菱重工という大きな工場街が東の兵庫にあったので、学校に子どもが通える範囲内に、住宅を建てようという話があったので、六間道を挟んで南の駒ヶ林まで、長屋の住宅を相当、建てたらしいです。そして、ずっと後の時代、大正から昭和にかける頃、学校があり、住宅があり、中央からもたくさんの人たちが近辺に集まって、急激に人口が増えて、昭和2年には、真陽小学校は、3,500人の大所帯になり、鉄筋コンクリートで3方を囲まれた、当時、神戸では有数の小学校でした。そして、急遽、グランドの真ん中に木造の校舎を建て、子どもたちを収容するような緊急状態になっていました。その当時、6年生の卒業生が550人ほどいたということです。今では、全校あわせても500人もいません。学校はその後、長楽小学校(大正5年)、二葉小学校(昭和4年、長楽小学校から分校)、志里池小学校(昭和11年)などに分校していきますので真陽小学校から分校していった学校はたくさんあります。真陽小学校の校歌にも、東は生田、西は須磨という地名が出てきますので、おそらく昔は生田の方からも、須磨浦の方からも、真陽に通っていたのではないでしょうか。




 明治政府が「富国強兵」の基礎として教育に力を入れたことはよく知られているところだが、末端行政の財政力といい、民間庶民の生活力といい、なかなかこれを受け入れるだけの力がなかった。明治30年ごろになっても就学率はだいたい50%以下である。これが90%を越えるのは、明治37、8年の日露戦争以後である。学制公布によって明治6年にこの地域では長田村、東尻池村、駒ケ林村に小学校がつくられる。さらに『文部省第三年報』でみると、校舎に当てられたのは、西野では民家だが、他は全部寺院であった。
     ―中略ー
明治20年5月、長田小学校、真野小学校、駒ケ林進級学校を合わせて、真陽小学校が新設されたので、それらの児童はすべて真陽小学校(30年尋常高等小学校となる)へ収容された。真陽小学校は今日に続いているので、区内で真陽小学校を一番古い小学校のようにいうのはそのためである。
「長田の歴史」より



 繁栄を極めた真陽地区も、長田区のインナーシティ問題が顕在化するにつれて人通りが少なくなり、阪神淡路大震災がさらに拍車をかけました。2001年7月には地下鉄海岸線が開業しましたが、景気が低迷し、少子高齢化が進む中で、まだまだまちが活気を取り戻すことが非常に難しい状況にあります。
 しかし、真陽地区は全市でも震災後いち早く防災福祉コミュニティが結成された地域です。人と人とのつながりを大切にし、自分たちのまちは自分たちで守るというみなさんの団結と思いで、良好な地域コミュニティが育まれています。トークに参加された方々もそんなまちのよさを活かしながら、なんとか地域の力を高め、まちに若者を呼び込み、これからもまちににぎわいと活気を作っていきたいと強く語っていました。


トークにご参加いただいた方
赤木富美子
二宮広子
正賀伸
山口五十次
高橋康弘
山下淑子
柘植チエ子
山本豈夫
松原実
(順不同・敬称略)









Copyright(c) 2002 I Town Nagata. All rights reserved.