文章中、司…司会者●…参加者




野田北部は、JR鷹取駅のすぐ南から東に広がる地域で、地区の中心には0.16haの大国公園があり、この公園が、地域のコミュニティの核となっています。そして、この公園の南北にコミュニティ道路があり、東に鷹取商店街が通りをなしています。




●「鷹取駅は、空襲を受けておらず、今の駅になるまでに、3回ぐらい改築してます。駅が東向きのときもあり、異国情緒があって、随分ハイカラな駅でした。」
●「昭和30年代には、線路沿いにバラックが、3丁ぐらいあり、幻の1丁目と呼ばれていました。汽車からのタバコの投げ捨てが原因の火事や事件が、度々起こったこともありました。」

司「ブドウ畑の写真もありますが、戦前ですよね。」
●「ドイツ人がよくブドウをつくってました。国道から、1か町の一帯が全部ブドウ畑でした。」
●「双子池を埋め立てた後、昭和13年ごろに田んぼが無くなり、ブドウ畑になり、家が建っていったんですよ。」




野田北部地区には、以前双子池と呼ばれる2つ並んだ大きな池がありました。この双子池にちなんで、海運町3丁目に震災後、復興事業の中で海運双子池公園が整備されています。

●「双子池は、野田村が、所有しており、現JR鷹取工場跡地にあった香盛池は、野田村と駒ヶ林村の両方が、所有していました。野田村では、香盛池を埋め立てて得た資金で、大国公園を整備したということです。」
司「なぜ、商店街は、大国公園から東へ伸びているんでしょうか。」
●「東に、鷹取市場があったからでしょう。」
●「鷹取商店街は、證誠神社(須磨区権現町)にお参りに来るルートになっていたという話があります。旅館が、成り立っていたからそれなりに他の地域からの人が来ていたのでしょう。」
●「商店街が東へ伸びたのは、鷹取市場が、繁盛していたからかもしれないでしょう。」
●「それに比べると、駅前の商店街ができたのは、だいぶ遅かったんですよ。商店街と名がついたのも昭和56、7年くらいですよ。そのころは、まだお店も数えるぐらいしかありませんでした。」

司「鷹取工場があるのに、なぜ駅前が栄えてなかったのでしょうか。」
●「JR鷹取駅は、鷹取工場の人のためにできたようなものでしたから、我々の日常の生活とは、直接関係なかったんです。当時、我々の日常の移動手段は、市電でしたから。」
●「そういえば、商店街の高橋病院のところは昔、鷹取館という映画館があって、昭和25年くらいに芝居小屋になったんですよね。」
●「戦後(昭和20年代)にもう1か所、「きんぽうじゅひろば」(長楽町2丁目)前の駐車場のところにも、芝居小屋があったんですよ。」



 野田には、大正末期まで双子池という大きな池があり、その水が周囲の田を潤していた。その池の表面は藻が繁茂して、一見するとちょうど美しい野原のようだった。
 この池には河童が住んでいたという。
 昔、野田の村人が宴会からの帰り道、真夜中に酔っ払ってこの池のほとりを通りかかった。ところが歩いても歩いても家に帰れない。とうとうそのうちに夜が明けてしまった。ハッと気が付くと、なんと自分はただ池の周りをぐるぐるぐるぐると歩き回っていただけで、おまけにお土産にもらった折詰の中身もきれいになくなっていたという。
 人々は河童に化かされたのだと話合った。
「ながたの民話」より


●「昔、野田海岸が埋め立てられる前は、妙法寺川の河口付近でよく海水浴をしていました。松林や海の家もありました。」
●「新開地方面の料理屋が海の家でお店を出していたんですよ。」
●「その近くにお化け屋敷があってね。」

司「そのお店に来るお客さんは、どこから来ていたんですか。」
●「この辺りの人が、夕涼みに来てたんですよ。」
●「そのころは、貝がよく採れて、焚き火で焼いて食べたりしていました。300mくらい沖に沈没船があってそこまで泳げたら、自分たちの中では一人前になった証でした。」
●「駒ヶ林まで砂浜が続いていて、長楽町から本庄町あたりまで松林があって、野田村の墓地も昔は浜にあったんですよ。(今は、本庄町4丁目に移転されている)」



●「戦後の幾年かは、国道2号は車がほとんどなく、道路で野球をしてましたね。夏になるとよくトンボ捕りをしました。夕方のオニヤンマの大群は、見事なものでしたよ。」
●「高度経済成長の頃育った私は、遊ぶところを探し回っていましたね。神社や空き地などで遊び、管理の人によく怒られてましたが、時代を追うごとに空き地も無くなってきましたね。遊びとしては、今と違って土道だったので、ビー玉やけんけんなどをしていました。」
●「市電が走っていたのは、私が子どものころが最後でしたね。次第に、市バスに変わっていきました。最後の市電が通るとき道端で、旗を振っていたのを覚えています。」


野田北部地区の変遷


●「子どものころ、六間道や大正筋(新長田駅南の商店街)の繁華街に遊びに行っていて帰ってくると、必ず誰かに見られていて後で怒られるんですよ。それが、野田北部らしさだったんですね。今はないコミュニティが、この地区にはあったんです。」
  震災後、野田北部地区では、人の和を大切にし、みんなの意見を大切にしながらまちづくり活動を進めてきました。

司「野田北部地区が、自慢できることといったら何でしょうか。」
●「やはり、人間、各年代に人材がいることですかね。最近では、子どもが多くなってきて、イベントのときは楽しいですね。」
●「夏まつりや餅つきには、各地からボランティアの人がたくさん来てくれます。」
●「これからも、昔から伝わっているコミュニティのよさを大切にしていきたいですね。」





司「教会とこの地区の関わりはどうだったんですか。」
●「イムマヌエル教会は、妹尾河童さんの少年Hにも登場します。」
●「カトリック鷹取教会には、幼稚園があって、地域の子どもたちが通っていましたが、地域住民が、気軽に出入りできるようになったのは、震災後ですね。」
●「カトリック鷹取教会の幼稚園は、人気が高く、入園するのに列をなしていました。」

●「あそこにあるキリスト像は、ベトナムからわざわざ運んできたものらしいですよ。」
●「教会では、結婚式なんかもやっていて、今から20数年前まで、神父さんが外国人だったので、異国情緒にあふれていたし、建物が素晴らしかったんですよ。」




 兵庫県南部地震の火災で、大きな被害を受けましたが、震災直後に紙でできた【ペーパードーム】が建てられ、まちづくりの集会やミサが行われています。震災時にはたくさんのボランティアがここを拠点として活動していました。
 また敷地内には区内対象エリアのコミュニティFM局「FMわぃわぃ」が開設され、在日外国人の方にもわかりやすい多言語放送などに取り組んでいます。


 1928年、須磨区で伝道を始め、1930年に本庄町に移転してきました。
 長田区出身の舞台美術家@妹尾河童氏の小説「少年H」の中でもたびたび登場するのがこの教会です。
「ながた すこやかマイロード〜史跡@伝説編」より


1997年に、長田区出身の妹尾河童さんの初の自伝的小説「少年H」が、文芸書の一位になりました。「読み始めたらとまらない」と反響もよく、初版の上下計6万部に加え、11万部の増刷が決まりました。
 これまでにも、戦争中は大変だったという小説は多いが、この小説は一味もふた味も違っています。少年の目で見た戦争時代の生活を細部まで克明に描きながら、大変な時代をたくましく生きる少年像を活写した爽快な小説です。
 この小説の中で、少年Hの活躍の場として、現在の高橋病院の場所にあった鷹取館をはじめ、イムマヌエル教会、満福寺、大国公園(三角公園として紹介)などが、登場し、紹介されています。


 阪神・淡路大震災で野田北部のまちは、壊滅的な被害を受けました。そして震災後、地区の東側の海運町2、3丁目が区画整理の区域に指定され、復興事業が行われてきましたが、地区住民の熱意と一致団結により、神戸で最も早く震災復興土地区画整理事業が完了しています。
 また、西側の長楽町、本庄町などで、復興事業により区画整理された区域に引けを取らないまちにしていこうと、まちなみ環境整備事業という制度を活用し、住民が自らまちなみのルールをつくり、細街路を、美しい街路として整備してきています。
  野田北部地区では、震災の経験を踏まえ、昔からのコミュニティを絆として、人が主体となって、震災の苦難を乗り越え、 安全で安心なまち、魅力的なまちを目指した取り組みが現在も行われています。



トークにご参加いただいた方
久米みきゑ
福田道夫
高橋陽
高木良行
河合節二
浅山三郎
(順不同・敬称略)









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